尾高惇忠と勇
2021-06-27
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現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』にて第18回 「一橋の懐」(6月13日放送)の座繰りの技術指導をさせていただきました。
放送は尾高家にて、幼女の勇が糸取りをしていると、父の尾高惇忠に「お勇は糸繰りが上手になったな」と褒められるシーンです。
さて、今回の場面は、蚕糸の歴史に関心がある方には、興味深いシーンではないかと思います。というのも、尾高惇忠は官営富岡製糸場の初代場長になる人で、その娘の勇は富岡製糸場工女第1号だからです。彼女は、子供の頃から糸取りに馴染みがあったのではないかという設定でしょう。なんとも憎い脚本と演出です。
ここからは、尾高勇が富岡製糸場の工女 1号となった経緯について触れて行きます。
製糸場が建設され、操業年の明治5年(1872)2月には工女の募集が行われました。しかし、最初はまったく応募者が現れなかった話はご存知の方も多いと思います。私はこの話を和田英の『富岡日記』で知りましたが、最近、惇忠の伝記『藍香翁(あいこうおう)』に詳しい記述を見たのでご紹介します。
「富岡模範製絲場」の章を読むと、広大な規模の建造物に、高くそびえ黒い煙を濛々と噴く煙突、疾風のように動く機械に、日本人は「到底人間ワザとは思われず」、恐怖を感じていたようです。
記述には、「是れぞ可の恐ろしきキリシタンの魔法よ とは、衆口符を合わせたる如くにして、観る程の者は目を側め、聴く者は為に其の唇をおののかさざるも無かりき。」とあります。
「・・・彼御雇の異人共は、実に魔法使ひの悪鬼輩(おにども)にして、彼のお触れに応じて過ちて年若の工女を彼の工場に入れむか、可愛や其女等はたちまち彼等に生血を絞られて、其の生命を断るべしと云ふにあり。
然してこの悪説の出所はと問へば。土人は風説にあらず、現に目撃たりと云ふ。如何なる物をか見たる?と又問へば。別にもあらず、彼等の飲む血酒!と云ふ。訊問せば。無残!そは日用の葡萄酒なりき。
翁(惇忠)は百方其の妄を弁ぜられしも、血酒の疑いをば解き得られぬなり。解き得られぬは可しとするも、為に工女の募集に応ずる者『一人も無し』と云ふ。」
ここが、よく語られる部分ですね。
そして、「 新築の大工場も、巍然たる偉観を呈せるは唯だ其の外構のみにして、内部は闃として人あるを見ず。其のわずかに繭を繰り、糸を製する者とては、御雇の佛国工女、ヒエーホール、モニエー、シヤレー、バラン、の四嬢あるのみ。其の情景の惨、ほとほと酸鼻に堪へざるものありき。
翁はここに於て始めて念へらく。是れ予が身をもって模範とせざるの過ちなりと。すなわち郷里より最愛の長女勇子の年十三なるを招き寄せられて、これを第一入門者とし、佛国教師の手に附けられたり。」となるのです。
壮大な規模の繰糸機を配した建物内に仏国から来た教婦4名のみがぽつんと立つ情景は惇忠の役職を思うと恐ろしくなります。日本に葡萄酒が伝わるのは江戸時代より以前で、明治3年には甲府に日本人による葡萄酒醸造所が設立しています。士族でしたら、そうした情報も入るでしょうし、明治政府からも噂を打ち消す告論書が何度も出されている中、誰も応募しないというのは興味深い話です。この事態に至って、惇忠は戦略を変えました。娘の入場に続き、惇忠は郷里の縁者や知己の人々を勧誘します。そして段々と応募に奔走してくれる有力な理解者も増え、同年の10月下旬には100名以上に達するのです。惇忠はその後、工女の教育にも力を入れたことで、より深い信頼を獲得し、「富岡工女」という肩書きが名誉と思われるまでに至りました。
さて、最後に、当時の勇について書きたいのですが、彼女に関する資料はほとんど見つけられませんでした。『富岡日記』の中に勇の名前が 1ヶ所登場するので、そこに触れておきます。これによると明治 6年頃に日本婦人中廻りという役職にあったことがわかります。中廻りとは、仏国人と日本人の男女の検査人のことで、繰糸作業の取締や監視を行いました。工女の等級も中廻りが話し合いで決めていたようです。女性側は、一等工女衆で組織された検査人でした。確実な情報かはわかりませんが勇の入場は明治 5年 7月の説があり、富岡日記で和田英の入場は明治 6年 2月なので、勇はこの7ヶ月間のうちには一等工女になっていたことが推測できます。
工女の募集年齢は、13〜25歳でした。この頃の勇は、数えで15歳ころでしょうか。『富岡日記』を読んでみると、工場の内生は政治権力が物を言うところがあり、それによる依怙贔屓もあっただろうと感じられます。しかし、それも度が過ぎると不満が爆発するわけです。勇がどのような人物であったかはわかりませんが、場長の娘であることによるプレッシャーや、まだ年若い女性が皆の模範となり、検査人を努めることはひとかたではなかったろうと想像しています。